小説家と文学賞(『作家超サバイバル』より)
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では『作家超サバイバル術』の本編をどうぞ
これはなかなかにセンシティブな話題である。
作家仲間で話していると、かなり強く文学賞が欲している人たち少なからずいる。その気持ちは痛いほど理解できる。
スポーツ選手など、自らの成長を数字で目の当たりにできる職業と違い、作家は自分の実力というものを把握することが難しい。日々、苦労して物語を紡ぎあげてきて、ストーリーテラーとしての実力が上がっていると自分では感じていても、なかなか客観的にそれを証明することができないのだ。
だからこそ、自分は作家として成長しているのだろうか。自分が目指している作家像は間違っていないだろうかと、不安に駆られることも少なくない。作家として生きていくと決めた者にとって、未来が見えないことは大きなストレスで、なにか自分が作家として成長しているという具体的な証拠が欲しくなる。
その『証拠』となるものは二つしかない。
一つは著書の売り上げである。売り上げが伸びているということは、自らが生み出した物語が多くの人を楽しませているという紛れもない証拠になる。これは、作家にとって大きな自信になる。
そしてもう一つ、自らの成長を証明するものが、今回のテーマである文学賞なのである。
有名な文学賞の候補になる、受賞する、そしていつかは直木賞を受賞して『直木賞作家』の肩書を得る。それを目標にしている作家もかなりの多く存在しているのだ。
さて、では私は売り上げと文学賞、どちらに重きを置いているのか。
圧倒的に売り上げである。
物語を構築する技術を高め、出来るだけ多くの読者を楽しませるということを唯一無二の目標としている私にとって、売り上げこそが、どれだけの読者を楽しませたかという指標になるのだから。
こういうことを言うと、「文学に携わる者が売り上げを気にするなどはしたない」、などと言ってくる者が一定数いる。しかし、私はそんな苦言、まったく気にならない。
私は自分のことを芸術家ではなく職人だと思っている。職人はいい作品を造り、それを客が使って喜ぶことを目標にするものだ。私にとっては、読者が作品を読んで楽しむことがそれにあたる。
いかにいい小説を買いても、それを読者に楽しんでもらえなければ私にとっては無意味なのだ。
また、私は『商業』作家である。商業である以上、小説を書くことはビジネスである。出版社は何百万円もかけて、私の書いた作品を製本し、それを書店に配本し、そのうえで宣伝を打ってくれる。もし私の本が売れなければ、ビジネスパートナーである出版社が赤字を被ることになる。それを避けるためにも、自分の本が売れることを第一の目標にするのが当然のことと考えている。
ただ、まったく文学賞に興味がないのかと問われれば、そんなことはない。作家仲間が有名な文学賞を受賞すれば素直に嬉しいし、自分だって頂けるものならぜひ頂きたいと思っている。
売り上げと比べれば重視していないというだけで、文学賞という栄冠が欲しくないわけでは決していない。
しかし、それでも私は極力、文学賞を視界の外に置くようにしている。
文学賞を強く意識することは、作家にとってとても危険なことだからだ。
何故なら……
文学賞というものは構造的な矛盾を孕んでいると、個人的には考えている。
プロ野球のMVPは記者の投票で決まる、映画のアカデミー賞は多くの映画関係者の投票で決まる、しかし(書店員の投票で決まる本屋大賞などの例外を除いて)大部分の有名文学賞の選考委員は、ベテラン作家が務めている。
以前にも書いたが、作家はデビューした瞬間に、同業者全員がライバルになる。東野圭吾先生や宮部みゆき先生のように、ベストセラーを連発している大作家と同じ土俵で戦わなければならないのだ。逆に言うと、どんな大作家も、いつ新人作家に寝首を掻かれてもおかしくないということである。
デビューして十年近くが経ち、それなりに売れてここで偉そうに語っている私だって、一年後には全く売れなくなり、このエッセイを読んでいる新人作家に売り上げで完全に抜かれる可能性も十分にあるのだ。
そんなの杞憂だと笑う人もいるかもしれないが、私は常にそれだけの危機感を持って執筆をしている。ベストセラーを連発していた作家が、わずか数年でまったく売れなくなったという例をいくつも見てきているからだ。
泳ぎ続けなければ鰓に水を送ることができず死亡する鮫のように、作家とは良作を書き続けなければ消えていく運命にあるのだ。
そんな作家の世界で、ライバルである他の作家の作品に優劣をつけるというのは、とても大変な作業である。ややすると、自分よりもはるかに売れている作家の作品が候補作にあがってくることすらある。その作品に厳しい評価をつけて批評すれば当然、「それより売れていない自分の作品はなんなのだろう」という想いに囚われるだろう。
そのような構造的な矛盾に加えて、文学賞の審査基準の問題もある。選考委員がどのような基準で、候補作に優劣をつけているかだ。
どうしてもプロ作家の基準では、比喩などの文学的表現が優れていることや、社会問題について鋭く切り込んでいることなどが評価されやすい。たしかに、それらは作家の実力を測る一つの物差しであろう。
しかし、それらは果たして一般の読者にとって重要な点なのであろうか。
もちろん、文章表現の美しさや、社会問題を取り上げることを基準に本を選ぶ読者も少なからずいる。しかし、読者にとって小説とは、「現実では味わえない事柄を仮想体験する」ためのツールではないのか。小説を読んでその登場人物に自らを投影し、スリリングな冒険、血も凍るような恐怖、甘く切ない恋愛などを楽しむ。少なくとも大衆小説は、その『体験』を読者に提供するものだと私は考えている。
そう、私は純文学者ではなく、大衆小説の書き手なのだ。文学賞で評価される文学的な技巧や、社会問題に対する取り組みも、すべては読者を楽しませるための手段の一つであり、小説の目的にはなりえないものだと思っている。
読者を楽しませる。一般小説を書くものは、その一点に集中し、物語を綴るべきだ。
最近は文章表現や、社会問題への姿勢が文学賞で評価され、最も重要である物語が面白いかに対する評価が、文学賞でやや希薄になりつつある気がする。ただ、それ自体が問題なのではない。文学賞の評価基準がそのようになっているというだけだ。問題は文学賞を欲するがあまり、その評価基準に合わせて小説を書きはじめる若手作家がいることだ。
そうなると、支離滅裂な状態になる。当然だ、自分の本を買ってくれる読者ではなく、文壇という同じ土俵で競い合っているライバルに評価されることを目的に作品を書いているのだから。もはやその人物は、『大衆』作家ではなくなる。
『選考委員』作家だ。
読者を楽しませることを目標に物語を書いた結果、文学賞などで評価されるという基本形が崩壊してしまっているのだ。
私たちの書いた本を買ってくれるのは読者だ。読者がいなければ、作家という職業は成り立たない。私たちはどこまでも真摯に、読者に楽しんでもらうことを目標に物語を紡いでいかなくてはならない。それが私の作家としてのポリシーだ。
そうやって、懸命に小説を書いていった結果、あるときふと、文学賞を頂ける。それこそが、本来の作家と文学賞の関係だと思っている。
以上は、広島本大賞、沖縄書店大賞、啓文堂文庫大賞、一気読み大賞を受賞し、本屋大賞にも三回ノミネートしたにもかかわらず、出版社主催の文学賞にはかすりもしていない作家の戯言である(もしかしたら、僻みもあるのかもしれない)。
この戯言の中に、どれだけの意味を見いだすかはあなたの自由だ。
あなたが文学賞の魔力に囚われて、作家としての本分を忘れないよう、せつに願っている。

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